さて先日閉幕しましたソチオリンピック。
まあ、私はあまりオリンピックには興味ないうえ、自宅にテレビがない人なので、ほとんど見ていないのですが、そんな私にも沢山聞こえてきたのが、フィギュアスケートの結果についてです。
特に女子フィギュアの事に関しては、物凄い話題になっていますね。
優勝はロシアの選手。
2位に韓国のキムヨナ選手。
そして、優勝候補と目されていた浅田選手は、前半の演技にてまさかの不調。結果6位に終わったそうですね。
そして、その結果についてのネット上での是非がいまだに続いております。
優勝者の採点についてや、キムヨナ選手への非難、採点方法に対する不満、浅田選手の不遇について、などなど。
まあ、本当に良くそこまでみんな熱くなれるなと。
いや何でそんなに冷めてるんですか?と言われそうですが、正直こういった演技を競うものの順位の優劣は非常に難しいのは、よく分かっているんです。
どこまで話しても、その結果は主観の押し付け合いです。
まあもちろん、大体数を占めない主観が結果になっているので、文句が色々と出るのでしょうけどね。
この方の書いているブログを読んでみましたら、とても共感が出来ました。
我々の競技ダンスの世界と全く同じです。
<うたうひとDACHONの人生奮闘記- オリンピックを見ていて思ったこと。>
ところで毎度フィギアの大会になると、キム・ヨナの点数はおかしいとか、審査がイカサマとかいうネガティブキャンペーンが始まるけれど、ああいうのは本当に気分が萎える。もう沢山ですという感じ。
ご丁寧に画像やイラストまでつけてこの採点はおかしいとか、エッジの傾きがどうだとか、簡単なジャンプで逃げて云々、とか、しまいにはブスなのに、とか、まぁどれだけ暇なのか、、ほんとどーでもいいと思ってしまう。。
真央ちゃんを応援するのは大いに結構だが、そこから転じて他の国を罵倒するような尊大な愛国心はどうも苦手だ。真央ちゃんに罵声を浴びせる韓国人もいる一方で、今回真央ちゃんが転んだ時に客席のロシア人の何人かがそれを嘲笑したことに怒りの声をあげて抗議してくれた韓国人もいる。どこの国にも良い人も悪い人もいる。
僕は今回のキムヨナの演技も素晴らしいと思ったし、ソトニコワの演技もそれはもう素晴らしくて、それに敗れたキムヨナも清々しい顔をしていた。
キム・ヨナも、「真央の涙に自分も込み上げてくるものがあった」とコメントを出したし、真央ちゃんだって幼少のころから長い間戦ってきたキムヨナに好意的なコメントを出し「キムヨナは私の人生にとって良い思い出」と言った。
こういう競技者たちの友情や尊敬の気持ちが、イカサマ云々で蔑ろにされてしまうのが悲しい。ネガティブキャンペーンを張る人たちは、氷上の彼女たちのああいう輝いた顔を見て恥ずかしくないのだろうか。では、(今回の話とかではなく)、100歩譲ってそのような不正が少しあったとしよう。
でもさ、そもそも世界というのは不公平なものなんじゃないのか。
人間が(芸術や美しさなどの)目に見えないもの点数をつける以上、そこには何らかの主観的な想いが入り込んでくるし、公正なジャッジと言ってもなかなか難しい部分もあるだろう。
もちろんイカサマだってあるかもしれない。
僕たちだって海外のコンクールで明らかに1位では無い歌を歌っている人が1位になっているのを何度も見てきているはずだ←
「日本は不公平な国だ、評価が偏っている!」と言ってヨーロッパに行った先輩に数年後イタリアで会ったら、「イタリアはもっと偏っていた」って言っていたし。
世界どこに行ったって、地元の人間を勝たせたい、自分の生徒を勝たせたい、そういう理由で偏ったジャッジが下されることは多々ある。
サッカーの試合でアウェイに行けばこちらの反則はすぐ取られ、向こうの反則は見逃される。
小さな町に行けば審判がお金で買収されていることもある。
それはもちろん不公平だ。
でも、それはどこに行ってもある事なのだ。世界というのは「平等に不平等なもの」なのである。
大体小学校の頃から可愛い子や頭の良い子は先生に贔屓されてたじゃないか。
カッコいい子や足の速い子はそれだけで女の子にモテてたじゃあないか。
そこで理不尽や不平等なんてとっくに学ぶべきなのだ。不平等なこの世の中でどう生きるか。
その不平等な世界の中でどう咲くのか。その力を持っている者だけが残っていくのだという事である。
咲くものはどんな条件の中でも必ず咲く。
環境やジャッジに文句を言っている人というのは一生文句を言い続ける。
この短い人生において、そんな無駄な時間を生きるのは勿体なさすぎる。
だいたい真央ちゃんやキムヨナがジャッジに文句を言っているのを見たことが無い。
いつも自分の演技への悔しさは語るけれど、それは自らへの悔しさでジャッジへの糾弾ではない。
そしてその目はもう次に向いている。
でなければ一晩寝ただけであんな演技はできないだろう。
僕たちの世界だってそうだ。
コンクールで負けました、オーディションに落ちました、それをジャッジのせいにしている人はずーっとそこから抜け出せない。
たとえそこに不正があったとしてもだ。
僕の周りにも、「日本はさー」「二○会はさー」といつでもぶちぶち言ってる人がいるけどそういう人はたいてい売れない。
次を向く事、明日を見る事、不正があるのならその世の中でどうやったら力を出せるのかを考える事。文句の前に動くこと、努力を続けること。
それができる人だけが残っていくのだと思う。
あのオリンピックの氷上にいる人たちはそういう人たちだと思う。
自分も全く同じような世界にいるので、ブーイングする人の気持ちも、上記のブログのような気持ちでいなきゃいけないことも、どちらもよく分かる。
本当に難しい問題だ。
実際、この様なルールの問題などは、踊りだけではない。
数値ではっきりと図られる種目でさえ、不平等は存在する。
日本が得意としてきたジャンプ競技なども、過去なんどもルールを変更され、日本人選手は不遇を味わってきたと聞きます。
単純に速く走ればいいF1でさえも、度々ルールの変更があり、その都度大変な思いをしているそうだ。
特にF1は、お金も時間もかかるものなのに、根本からひっくり返るようなルールを度々導入することで有名です。
(今年もとんでもないルールが導入されているらしいですが)
でも、ルールを変更することは悪い事ではありません。
悪い事でなければ、それを上手く使い自分たちに有利にしようとするように考える人も出てくるでしょう。
ルール変更の良い面もあります。
人間は新たな壁が出来ると、それを乗り越えようと試行錯誤します。そこから新たな発見や技ができたりして、進化することもあるのです。
日本人は(自分も含めて)、真正面から真面目に戦うことは良くできても、こういったルールから攻めるや組織的な活動からの戦略と言った事はとても苦手な感じがします。
フィギュアのように国際的になり、花形種目として各国から注目を浴びるようになれば、当然日本は組織としてその中で力を持ち、ロビー活動(いい意味で)を行い、不利なルールの改変には拒否できるだけの力や協力関係を持つことも必要なのでしょう。
毎度日本選手が不遇を受けている話を聞くと、そういったトータル的な視点の欠如、そしてバックアップとしての組織の貧弱さを垣間見てしまいます。
ということで、競技は難しいね、という私のソチオリンピックの感想でした。